信念を貫いて起業〜人との出会いに支えられて
学生時代は、真面目ではあったが学業成績は揮わない、すべてに自信のない学生でした。就職活動においても、友人が次々と有名企業より採用内定の通知を受ける中、昭和35年4月に、3年先輩である服部実氏の紹介で、山叶証券株式会社へ新卒54名の1名として入社し営業部に配属されました。
山叶証券株式会社、入社当時
入社当時の私は、誰が見ても証券会社の営業マンとしては不向きな人間で、訪問先で株式、投資信託や債券の販売の話も言い出せず、また十分に説明もできず、お茶を濁して帰ろうとする有様でした。しかし、友人の父上が日本棋院で囲碁の先生をしており、会社の帰途や休日などにお寄りすると、お弟子さんである企業経営者を紹介してくださったりしました。当時、私の生まれ育った東京都足立区では都営住宅の建設ラッシュ、江戸川区葛西、千葉県浦安、市原地区では埋め立てと続き、農家には土地売却代金、のり漁業者には補償金として大金が入りました。私は農協・漁協組合員名簿を入手し、休日でも一軒一軒訪問し営業活動をした結果、多額の投資信託を購入していただき、集金には常務取締役が運転手付のベンツを貸してくれました。入社後2年間は同僚の中で最高の営業成績を残すことができ、自分にも少々自信がついてきました。私はここで初めて、誠意と熱意を持って対処すれば相手に通じる“訥弁の能弁”という言葉を教訓として悟りました。
証券不況による株取引の減少と社内の退廃的なムードに耐え切れず退社
しかし、昭和40年の証券不況による株取引の減少、社内の退廃的なムードに耐え切れず退社することになりました。私は、在職中の昭和37年10月に取引先の紹介で妻弘子と結婚し、精密機械部品加工業をしていた妻の実家の社員寮に居候していました。妻は結婚前には実家の経理全般を見ていましたが、結婚後すぐに長女を妊娠したため、私の薄給を助けるために内職をして家計を切り盛りしていました。私の生家は代々和楽器を製作する職人で金属加工とはまったく縁がなく、少年の頃はベー駒をアスファルトの舗装面に押し当て芯を研磨した経験くらいしかありませんでしたが、証券会社の退職金で小型フライス盤1台を購入し、義理の父の工場の一隅に置かせてもらい仕事を手伝うことにしました。短時間で技術を習得するため実弟を連れて工場に入りましたが、社長である義理の父とはいろいろな面で考え方が私とは異なり、精密金属加工については右も左もわからぬまま1年3ヶ月お世話になりましたが暇乞いをすることとなりました。この間日本大学で文科系の人を工学系にコンバートする講座があり、夜1年間通学し、材料・焼入れ処理などの基礎的な知識を学び、また、千葉県市川市に小さな自宅と10坪弱の工場も建て、クラスメートで工作機械の販売をしていた吉池照信君にお世話になり工作機械を数台設置しました。
私は得意先の開拓、妻は資金繰り、弟は加工と役割を分担
私は得意先の開拓、妻は資金繰り、弟は加工と役割を分担して零細企業がスタートしました。前述の吉池君には得意先であるテルモ株式会社を、また奥様の父上が教職に就かれていたので最初の従業員の紹介と、創業の際には力をお借りいたしました。その後、地続きであった妻の母親の所有地を借り、プレハブの建物を建て、松本丈夫氏(昭和39年経商卒)の勤務先である日本ブランズウィック株式会社をお訪ねして当時全盛であったボウリング機械の修理、部品製作の仕事の注文を受け、得意先も増加、少しずつではあるけれど軌道に乗りつつありました。また、求人難の時代であったので、市川商工会議所求人グループに参加した折、北海道各地で教職に就かれていた昭和35年卒の清水昭一(教育学科)、酒井日出男(ドイツ文学科)、吉田義昭(英語学科)の各氏をお訪ねして、就職後は寮に入居し夜間大学に通学を希望する高校卒業生をご紹介いただき、社員が6名の会社に新入社員11 名を迎えるという常識では考えられないこともありました。
妻は相変わらず資金繰り、従業員20名分の昼食の賄い、夜は大学から寮に帰った従業員の夜食、若い従業員の悩み相談、2人の娘の子育てとフル回転で活躍、協力してくれました。本年8月17日の日刊工業新聞に掲載された「町工場の妻たち」の中に、「起業経営者にはハングリー精神と妻のサポートが必要」「起業するパワーは夫が発揮し、経営を持続するパワーは妻の支えに負うところが大きい」との記事を発見し、自分達夫婦のことを書かれているような気がしました。
私の物づくり、製品開発の師として忘れることのできない人で、日本で最初のラジコン模型の開発者である株式会社木曽製作所社長木曽国春氏(故人)からは、「金属加工を業としたなら完成品を作るように努力しなさい」と激励されました。木曽社長はアイディアマンであり、全国の電力会社で採用されている超高圧送電線を絶縁・支持する碍子の自送式絶縁測定用ロボットを開発され、私もその駆動部の製作に携わったり、東京電力の送電鉄塔に工事従事者が上り下りするのに使用する墜落防止金具の製品化を任されたりしました。
土地購入、工場建屋の建築の直後に第一次オイルショック
創業6年目に現在地の千葉県鎌ヶ谷市の準工業地に移転することになりましたが、ここでも親切で良き人々に出会い、励まされました。工場用地300坪、坪単価8万円でしたが、若気の至りと土地取引の知識のなさ、金のなさが加わって、契約の際手付金を10万円しか持参しませんでした。地主の方は、土地ブームが始まり日々値上がりしており、契約を破棄し違約金として手付金の2倍の20万円を返せば他に土地を転売できるけれど、若くて真面目そうだから頑張りなさいと励ましてくれ、契約を結んでくれました。土地購入、工場建屋の建築の直後に第一次オイルショックが起こり、仕事も発注先企業が引き上げ減少どころかなくなり、土地、工場建築代金の銀行への返済が不可能となり、途方に暮れる日々が続きました。工場を手放せば操業ができなくなり生活基盤も失い、従業員・家族4人路頭に迷う場面も予想されました。妻は嫁入り道具代わりに親からもらってきた土地を手放しアパートに移り工場だけは残そうと言ってくれ、私も兄に相談しお金を借りる手はずをつけ、その実行直前に株式会社精工舎より検眼器部品の仕事が入り始め、間一髪で危機を乗り越えることができました。
アナログ式ホルター心電計のメカセットを開発
その後、アナログ式ホルター心電計のメカセットを開発してフクダ電子株式会社へ納入し、医療機器としては破格の数量が売れ、また他社にも納入が始まり、会社も健全な財務内容となりました。利益が出ればありのまま税金を払い、代わりに設備投資・製品開発助成などについては国・地方自治体の助成施策を利用させてもらい、その結果、東京国税庁より三度にわたり優良申告法人として市川税務署長の表敬を受けました。また、平成13年9月に品質管理システム規格ISO9001ならびに医療機器における品質管理システム規格ISO13485を取得、ここ数年は大手の下請け、加工のほか自社製品である医療機器の開発にも努め、国・千葉銀財団からも多額の助成金を受けました。開発には失敗がつきもので多額の費用がかかります。何もしなければ失敗もないけれど、私は敢えて挑戦することを心がけています。自社開発の医療機器は販売子会社のホープ電子株式会社を通じ販売し、日本の医療に多少なりとも貢献したく考えております。プロ野球ソフトバンクの王監督が胃ガン除去のため鏡視下外科手術を受けられたことが報道されましたが、当社でも鏡視下外科手術に使用される電極鉗子などを製造販売しています。昨年の日本内視鏡外科学会において、胃全摘術で食道の切離、食道と空腸の吻合を比較的容易に施術可能な巾着縫合器Endo-PSI を発表いたしました。
何事にも体力、知力、運も必要でしょう。しかしすべてに勝るものは勇気と熱意であると思います。「一期一会」人との出会いを大切にして、少し他の中小企業と毛色の異なった会社にするために頑張っています。社長業は決して楽しくはない。しかし、とてもやりがいのある最高の仕事であると思います。
(株式会社平田精機社長)
