さる5月28日、オールソフィアンズ・フェスティバルに先立ち、10号館講堂で卒業生の金・銀・銅祝の式典が行なわれ、私もここで祝状と金杯を戴く光栄に浴しました。大変にうれしく思います。
  この際、1956年に卒業して以来、いろいろ変化の多かった50年を省みてみます。

J・Pモルガン銀行に就職が決定

(1)卒業当時、不景気で就職率は芳しくなく、何かと大変でした。経済学部卒業生は150名ほど。その中で、J・Pモルガン銀行(前身チェイス・マンハッタン銀行)に就職が決定し、その直後にシェル石油にも採用が決まりましたが、大学の規定で先に内定した方へ入社しなければならず、いまでもこのことで外資系銀行に入ったことを後悔しています。
 銀行での最初の3年間は出納係り、次の3年は当座預金係り、最後の2年は会計を担当しました。ここで、異変が起きました。ある日、人事部長から呼ばれ、日本IBMから求人の依頼があるので、試験だけでも受けてみないかと誘われました。1963年のことでした。多少の不安がありましたが、試験に落ちても身分は保証するとのことでしたのでトライしました。テストはかなり難しく感じましたが、英語の成績が良かったらしく、無事、合格できました。これで、銀行からコンピューター会社に勤めが変わります。

IBMに入ってからの8年間

(2)IBMに入ってからの8年間はコンピューターの納期管理を工場でやらされました。きわめて忙しく、年次休暇もまったく取れず、残業に継ぐ残業で、厳しい生活の毎日でした。9年目あたりから、余りの激務で不眠症に陥りました。会社からは神経症と診断され、しばらく業務から遠ざかるよう言われました。これでは会社を辞めるしかないな、と考える毎日が続きました。その後、会社指定の神経科病院へ入院することになりました。
  結局、1970年に1ヶ月半の入院生活を送りました。その日々たるや想像以上にひどく、とくに食べ物の劣悪だったこと、昼に出るラーメンはツユがなかったり、ご飯はすべてが古米でした。問題は、一度入ったら何年でも入院を強いられ、ごく普通に見える人でも10年という者もおりました。そんな中で、私もいつになったら退院できるやらと非常に不安な連日でした。私の場合、短い入院ですみましたが、長期にわたり通院し、薬のお世話になりました。
  仕事の方は工場施設部の総務課に配属され、比較的軽い業務に配転となりました。その後、翻訳業務を任され、1975年には難関の英語検定試験1級に合格しました。1979年には廃棄物処理施設技術管理者の試験に合格し、工場全体の廃棄物管理を任されました。

 いろいろありましたが、1993年に30年間勤続したIBM藤澤工場を定年退職しました。この間、ワンダーフォーゲル部に所属し、夏は登山、冬はスキーと多くの余暇をエンジョイしました。

フリーな人生へ

(3)退職後はキャンプ座間PXのキャシアーとして3年間勤務し、それからはフリーな人生となりました。女房と一緒に10カ国ほど海外旅行も楽しみました。ワイフとは見合結婚で42年になります。我慢強く、働き者で、料理上手。わがままで苦労の多かった私を黙って支えてくれました。彼女がいなっかたら、私の人生はなかったことでしょう。
  自宅から車で20分ほどのところに米海軍厚木基地があります。そこに所属する海軍大尉と懇意になり、彼のおかげで基地内に入り、月2回、歴史ものを中心に英語の勉強をしています。傍ら、毎回ドル建てのプライスで安くておいしい食事をしたり、将校クラブでカクテルを楽しんだりしています。 経鷲会の会合にも出ています。

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