経鷲会元会長 伍堂光男君を悼む
去る2月23日木曜日の午前中、冷たい風が吹き抜ける多摩霊廟で、伍堂君の納骨式に参列し、最後のお別れをしました。その時にもそうでしたが、その後、日が経つにつれ、長かった彼との付き合いがいろいろと頭をよぎります。今でも、行きつけの銀座のバーや四ツ谷界隈のレストランにいると、彼がひょっこり現れてくるような気がしてなりません。
伍堂君は、元日本航空会長の輝雄氏の長男として昭和9年3月1日東京に生まれました。
教育大付属高校を経て上智大学経済学部へすすみ、昭和32年に卒業して三菱商事に入り、石油部で大活躍されました。その後、日本高速通信の役員を務め、退任後は夫人の兄君が社長を務める英国系コンサルタント会社プラウドフット・ジャパンの特別顧問として東奔西走しておりました。
いっぽう、大学関係ではソフィア会副会長として長らく諸橋会長を支え、経鷲会では平成元年の創立以来10年間,会長として1万人のエコノミアンの先頭に立ちました。そうした最中、不幸にも白血病、胃がん、食道がん、肺がんと重病に冒され、主治医成毛先生(胸部外科の権威)や奥様の渾身の治療・看護・介護も空しく、ついに1月5日午前10時40分、還らぬ人となりました。
初対面同士が声を掛け合い、その時から気脈が通じ合う仲に
私は一浪して上智に入ったのですが、筆記試験のあとの“身体検査”で、下着一枚で順番を待っていたとき、すぐ後ろが伍堂君でした。初対面同士が声を掛け合い、なぜか、その時から気脈が通じ合う仲となりました。入学後は教室の席も隣で、体育会ゴルフ部もいっしょ、卒業後、私は英国系船会社に就職し、勤務地もともに丸の内。そんなわけで日夜ひんぱんに会っての交友が続きました。私にとって彼は空気みたいな存在で、以心伝心、お互いに何を考えているかがわかる間柄でした。
故人は大変世話好きで、頼まれればいやと言ったのを見たことがありません。いつもダンディで、笑顔を絶やさず、ジントニックに目がなく、女性には特に親切。得意なベッサメムーチョの歌は故浜口庫之助氏に師事して3,000回も練習したそうです。どんなに下手くそでも、同じ曲を3,000回練習すれば、かなりの域に達すると言っていました。ナットキングコールの歌も十八番で、歌う前には必ず“ノット・キングコールが歌います”と駄じゃれていました。ウイットとユーモアに富んだ快男子でした。
彼の仕事で特筆すべきことがあります。商事時代、1973年10月に第1次オイルショックが勃発し、日本経済は大打撃をこうむりました。そのとき、伍堂君は人脈を生かして、当時の中曽根通産大臣とサウジアラビアに乗り込み、大きな成果を挙げました。
ゴルフのことも書きたいのですが、紙幅がありません。50有余年に及んだ交友のなかで,ゴルフよもやま話は山ほどありますが、これらの思い出には、同期でゴルフ仲間の吉田勉君、松浦一夫君等と共に、ゆっくりと追憶の日々にひたりたいと思っています。
私もいずれあの世で彼と合流します。伍堂も、きっと、“三途の川カントリークラブ”で待っていてくれることでしょう。
(ロッテルダム市港湾局・アムステルダム空港スキポール日本代表)

