創業二十三年道半ば

創業以来変わらぬ大きな夢が有る。企業目標の「自己表現できる技術者を育てたい」だ。異機種間接続の通信事業を柱に据え起業したものの、民営化前の日本電信電話公社の接続試験には何時も泣かされた。当時三十五歳からの起業は早かったほうだろう。もう少し早ければと、今でも悔やまれる。地方教員の倅で、金、人、マーケットの全てを持たない、無い無い尽くしのスタート。女房は倒産夜逃げしてきた地方経営者の娘だった。夜逃げの可能性を秘めた起業を怨んでいたかもしれない。

創業の1980年は第二次ベンチャーブームの真っ盛りで、民間ベンチャーキャピタルに幾度かノミネートされた。促成栽培でキャピタルゲインを急ぐ民間を避け、1984年に官制の東京投資育成会社のベンチャー投資第一号を受けた。それが良かったか悪かったか解らない。今更ベンチャー企業と名乗るには憚られる。しかし何時もベンチャーの意欲を失わず、ベンチャー的行動を取り続けている。四十、五十歳代シニアーの活性化を目指したシニアーベンチャーへの取り組み、八年前始めた全員年俸制への移行等もその一つだ。訝しがる社員全員に退職金を支払い、学歴、勤続、妻帯・子女手当等の属人的な要素を排除してきた。それまでは安定低成長に甘んじていたが、競争原理の働く、成果重視に移行して来た。

村社会から脱皮するには「外の世界に触れてみる」こと

日経新聞に「働くと言うこと」との特集が組まれたことがある。自分がやってきた事に誇りを持ち、自信を持って語れる人が極めて少ないそうだ。確かに終身雇用・年功序列社会では、一つの文化・価値観に身を委ねざるを得なかった。それだけに人生の岐路に立たされ、組織や他人任せで来てしまった人達が多かったのも事実だ。
村社会から脱皮するには「外の世界に触れてみる」ことだ。全く価値基準・文化の異なる人達と触れるには、相当の覚悟が必要だ。20歳代ならいざ知らず、40、50歳代になって、価値基準の相違から、ものの見事に喝破される事も充分覚悟しなければならない。
一つの文化に身を委ねながら、自分のマーケットバリューを高めるのはそれ程難しいことではない。どんな仕事・分野でも、疑問を持ち、仮説を立て改善・改良に取組む事は可能だ。手始めに現在の役割に自ら仮説を立て、実践し、検証を繰返すことだろう。何故だ何故だと、常に現状の姿で良いのかと問題意識を持つ事から始めれば良い。自分ならばこうすると言った仮説を打ち出し、実践・検証を繰り返し、次のステージを懸命に模索する事で、自分に磨きを掛けられる。組織も個人も現状を疑わず、これで良しとする処から後退・衰退が始まるのは歴史が示すところだ。

「稼ぐ人、安い人、余る人」

世界を巻き込んだ厳しい大競争時代に、日本の人材力では就いていけないのではと心配する人がいる。その背景は「稼ぐ人、安い人、余る人」の議論だ。特に日本では大半が「余る人」になるのではと指摘している。「余る人」とは「単純な仕事は嫌だ。ましてや安い報酬は嫌だ。自分はそれなりの大学を卒業し、何か創造的な仕事ができるはずと信じているが、自分ではビジネスや仕事を作れない人」の事だ。かってITバブル期に、渋谷で「ビットバレー」が出現し、一年も経たずにあっと言う間に消えてしまったことがある。地域再生・活性を主眼に、国や地方の行政はワンストップ型の起業家作りに腐心している。何時もの事ながら行政はハコモノから始まる為に、何処も同じ様なコンセプトとなる。特色を持たせ本物にするには、産学官協調の技術移転だけではなく、MBAとは言わないまでも地域に根ざした起業家を育てる仕掛け作りが急務だ。それに加えシニアーも若い人に迷惑を掛けず、自ら人材力アップに励み、若い世代への継承を可能にしなければならない。

私もまだまだ若い積りだが、若い人から見れば賞味期限もとうに過ぎたかもしれない。常勤役員も三十歳、四十歳代に移行した。創業二十三年道半ば。若い世代に資する良い事業継承をと念じている。

創業二十三年道半ば:菊地 史郎

(株)システムプランニング & エンジニアリング 代表取締役)

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