国連での25年

上智大学で経済学と統計学の初歩を勉強した後、私は引き続き米国と英国で応用統計学と計量経済学を学び、その後1974年から2年間日本のODA関連の途上国調査や開発計画作成に携わりました。途上国の開発協力に興味をもち、それを生涯の仕事にしようと思っていたのです。

途上国の開発協力を生涯の仕事に

1976年に外務省より対国連派遣アソシエート・エキスパートプログラムの第一期生として、中米カリブ海の小国セント・ヴィンセント(東カリブ海共同市場ECCMの一国)に滞在し、UNIDO技術協力プロジェクトで働く機会を与えられたときには即座にとびつきました。これが現在まで続いている私のUNIDOでのcareer developmentの始まりです。

人口10万人のセント・ヴィンセント島(人口の90%はアフリカ系)では2年間仕事をしました。その間、同国の工業開発計画を立案するため、産業統計が全く無かったので、私は思い切って一人で同国の産業センサスを実施しました。

セント・ヴィンセント島での産業センサス

一人で3ヵ月かけて国中を自家用車でくまなく廻り、存在する企業(零細家内工業が多く、20人以上雇っている企業は30〜40程度)を見つけ出し、私が作った簡単な調査票に企業主自ら記入してもらうことから始めました。この間無人の山中で強盗団に襲われかけたり、村の恐そうな青年(私も青年)から、初めて見る日本人か中国人か不明の私にカンフ−をやって見せろとせがまれ(ブルース・リーの影響)適当に真似して見せたら感激され、以後私を町で見かけるたびに彼は例のカンフー式挨拶をする様になり、他の若者たちも私をスーパーマンと見るようになりました。おかげでセント・ヴィンセントでの2年間、私とワイフに対する路上強盗、あきす等は全くありませんでした。また、センサス中には企業主達に私は同国の税務署のスパイではないかと疑われ、打ち消しに大変苦労しました。

同センサスの結果はUNIDOだけでなく、世界銀行でも公式統計として採用されました。この統計に基づき何とか同国の工業開発五ヶ年計画(政府主導を想定)を立案することが出来、同計画は政府によって採用されました。この時の感激は今でも忘れられません。

アメリカ女性の危機管理能力・順応性・適応性

セント・ヴィンセント島における2年間は画家であるアメリカ人のワイフにとっても大変貴重なものでした。現地の人々を画材に絵を描くばかりでなく、家の庭に菜園を造ったり浜辺で沖から戻ってきた漁師から買った魚を三枚におろしたり、刺身にしたり、干物にしたり、青空市場でスリを追いかけたり、スリに逆襲されかけたり、彼女もまた大変でした。彼女のこれらの体験は国連職員のパートナーにとっては非常に貴重です。身体は小さいのですが、アメリカ女性の危機管理能力・順応性・適応性には感心しました。

カリブ海での滞在の後、一年間(1979年)は日本に戻りJICA(Japan International Cooperation Agency−政府の対途上国技術協力機関)の二国間技術協力プロジェクトの要員としてエジプトに7ヶ月滞在し、同国南部の経済開発計画を立案しました。エジプト滞在中には当時のサダト大統領と握手する光栄も得ました。

オーストリアのウィーン市にある本部勤務

1980年にはUNIDOに戻り、今度はオーストリアのウィーン市にある本部勤務です。UNIDO本部は欧州における国連のジュネーブに次ぐ第二のセンター(Veinna International Center)の中にあります。UNIDOはFAO,ILO,WHO,UNESCO等のようないわゆる国連専門機関の一つです。同機関の調査・統計部でリサーチ・エコノミストとして勤務を始めました。そして1992年からは統計専門の仕事も行い1998年にUNIDOの主任統計官となり現在に至っています。しかし相次ぐ財務縮小に伴い、最近では人員確保と予算獲得に多くの時間を費やしています。

残りの紙面でウィーンでの印象の一端を報告します。御存知の通り、オーストリアは世界で一番、人工物と自然とが調和した美しい国だと思っています。また、首都ウィーン近郊での生活は個人スポーツとしての乗馬、音楽、ワイン、そして健全な夜遊びの愛好家にとっては最高です。今年もある調査によれば、ウィーンは世界で二番目に住みやすい都市だそうで、これには私も同感です。(一番の都市はどこか忘れました。)

国連での25年毎日、仕事の後、私の馬をあずけてある乗馬クラブに直行し、ウィーンの森の中を馬で駈け回ったり、馬場で障害を飛んだりして汗をかき、その後はやはり馬狂いのワイフと近所の食堂でワインやビールを飲んだりします。とはいえ、夜の乗馬のあと、再びオフィスに戻ったりする場合もよくあり、国連での仕事はそんなに楽ではありません。 

定年まであと数年ですが、この四半世紀は短かったようで、いろいろな出来事を考えると長いものでした。いま改めて感じることは、上智での学生生活こそが私の国連社会と国際社会への順応性を造ったということです。

(国連工業開発機関UNIDO主任統計官)

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